プーチン、レーニン、スターリン......
超大国ロシアを導いた
強靭な指導者たち

Story - 2022.03.07
20230621_T27_P124-P125_0.jpg ロシアの歴史は、9世紀、現在のウクライナのあたりではじまった。 2022年2月末に起きたウクライナ軍事侵攻で、ロシアの現在、過去、未来に注目があつまっている。

今回は、各時代にロシアを支配した為政者たちの足跡を辿ることで、"東の超大国"が歩んだ激動の歴史を振り返りたい。

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※この記事はTRANSIT27号「美しきロシアとバルトの国々」から再編集したものです。
illustration=MAO NISHIDA
text=TRANSIT



#1
キエフ大公国の時代(882年頃〜1240年)
ウラジーミル1世(955頃〜1015)

20220303_01-min.jpg 9世紀のキエフ大公国誕生をもって、ロシア史ははじまる。キエフ大公国は現在のウクライナの首都でもあるキエフを都として、いくつかの公国が連合した国で、ヴァリャーグ人(ノルマン人バイキング)の族長リューリクがスラブ人に招かれてロシアへ渡り、スラブ人の内紛をおさめて、スラブ人を中心とした国を建設したといわれる(諸説あり)。ヴァリャーグ人が「ルーシ人(=舟を漕ぐ人)」とも呼ばれ、キエフ大公国が「ルーシの国」という名称もあったことが、現在の国名ロシアの由来にもなっている。キエフ大公国においてもっとも重要な出来事が、キリスト教の受容だ。988年、キエフ大公のウラジーミル1世はギリシア正教を国教として受け入れることで、イデオロギー的な基盤を築き、また当時の先端をいっていたビザンツ文化を取り入れ、国の権威を向上させた。こうしてヴァリャーグ人の時代からキリスト教の時代へと移っていく。


#2
モンゴル帝国の時代(13〜15世紀頃)
バトゥ(1207-1256)

20220303_02-min.jpg 11〜12世紀に入ってキエフ大公国が衰退しはじめていたところ、1220〜1240年代にモンゴル帝国による征服戦争が起こる。モンゴル帝国の遠征軍の総司令官だったチンギス=ハンの孫バトゥは、数年かけてルーシ諸国を屈服させ、キエフ大公国は崩壊した。その後、バトゥが築いたキプチャク・ハン国は、1243〜1502年のおよそ2世紀半にわたってロシア諸公を使った間接的な支配を行う。人びとは税を納めたが、宗教や習慣は守られた。このモンゴル侵攻以降、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の民族の違いが分かれていったともいわれている。


#3
モスクワ大公国の時代(1263〜1547年)
イヴァン4世(1530-1584)

20220303_03-min.jpg モンゴル侵攻後も、力を蓄えていった地方政権があった。そのひとつが、1283年に誕生したモスクワ公国。のちのモスクワ大公国だ。モンゴルと臣従関係を築きながらも徐々に支配を脱して、モスクワ大公国のイヴァン3世の時代に「タタールのくびき(モンゴルの支配)」を終わらせる。1547年には、イヴァン4世が自ら君主の称号である「ツァーリ」を名乗り、専制政治を行う。強いリーダーシップで、行政、軍隊、法律の改革を進める。その後、バルト海へも遠征するが頓挫する。失策をきっかけに大貴族層の反発を軍事力で服従させ、農奴制を強化して恐怖政治をはじめ、国は荒廃していく。のちのソビエト連邦の指導者、スターリンにも影響を与えた人物。


#4
ロマノフ朝の時代①(17〜18世紀)
ピョートル1世 (1672-1725)
20220303_04-min.jpg ミハイル・ロマノフからはじまったロマノフ朝を繁栄させたのがピョートル1世。ピョートル1世は、プロイセン王国やオランダ、イギリスといった欧州を訪れて先進的な社会を目にし、帰国後に国内の近代化に注力する。サンクトペテルブルクへの首都移転、軍隊の増強、地方行政の整備、官僚の育成などの改革を行う。また、この頃からロシアが大国化していく。南方へはオスマン帝国やその属国が支配する黒海沿岸や地中海方面まで勢力を拡大。北方ではスウェーデンと争い、1721年に二スタットの和約を結んでバルト海沿岸を獲得した。東方ではシベリア進出をして、1689年に清の康煕帝とネルチンスク条約を結び、ロシアと清朝の間で初めて国境が定められた。1721年には元老院からインペーラトル(皇帝)の称号を贈られて、対外的にも国名を「ロシア帝国」を称するようになり、ピョートル1世が初代ロシア皇帝として認められるようになる。こうしてロシアがヨーロッパ列強としての存在感を強めていく。


#5
ロマノフ朝の時代②(18世紀)
エカテリーナ2世(1729-1796)
20220303_05-min.jpg エカテリーナ2世は、ドイツ(現在はポーランド領)の貴族の娘として生まれ、ロシア皇太子に嫁ぐ。エリザヴェータ女帝が死去すると、夫がツァーリに即位してピョートル3世となる。夫ピョートルとは不仲で、ピョートルの政治能力を不安視する声もあったことから、エカテリーナは1762年に反ピョートル派の貴族や近衛連隊とともにクーデターをおこし、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝となった。その後、啓蒙思想家のヴォルテールやディドロから啓蒙思想を学び、自ら政治を行う。近代化を進め、ウクライナの大部分やクリミア半島、ポーランドを併合するなど、海外進出も積極的だった。ピョートル1世と並んで「大帝」と呼ばれる。


#6
ロマノフ朝の時代③(18〜19世紀)
アレクサンドル1世(1777-1825)
20220303_06-min.jpg 祖母エカテリーナ2世のもとで自由主義的教育を受けて育つ。外交面では、1812年と1813年とにロシアに進出してきたナポレオン率いるフランス軍を、犠牲を払いながらも撃退。ナポレオン戦争後の欧州の秩序を取り戻すために開かれた1814年のウィーン会議にも、アレクサンドル1世が参加。フランス革命とナポレオン戦争後の混乱するヨーロッパで、革命前の絶対王政の体制に回帰するような国際体制が組まれ、国際社会におけるロシアの存在感が高まった。


#7
ロマノフ朝の時代④(18〜19世紀)
ニコライ1世(1796-1855)
20220303_07-min.jpg 1825年に兄アレクサンドル1世の急死を受けて、皇帝に就く。このとき、ツァーリズム(専制政治)に反対して青年将校たちがデカブリストの乱を起こすが、すぐに鎮圧。専制政治体制を革命から守るため、秘密政治警察の創設、検閲の強化などを行い、警察国家体制を築いた。経済面では農奴制のために資本主義が育たず、西洋諸国の後塵を拝す。


#8
ロシア革命の時代(1917年)
ウラジーミル・レーニン(1870-1924)
20220303_08-min.jpg アジア系の血を引く教育者の父と、ドイツ、スウェーデン、ユダヤ人の血を引く母のもと生まれる。レーニンの兄アレクサンドルは、皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加したことで処刑される。レーニン自身も大学時代に学生運動に参加。そのうちにカール・マルクスの『資本論』と出会い、マルクス主義に傾いていく。ロシアが第一次世界大戦に参戦し、国内社会が無秩序状態に陥った時代に、共産主義を掲げて登場。帝国主義戦争に反対を唱え、ソビエト連邦の樹立を宣言する。その後、内戦と外国の干渉にさらされながら、ロシア十月革命を指導して、世界初の社会主義国家を樹立した。1924年に病に倒れる。


#9
第二次世界大戦の時代(1939〜1945年)
ヨシフ・スターリン(1878-1953)
20220303_09-min.jpg ロシア帝国統治下にあったジョージアで生まれる。神学校で教育を受けていたが、カール・マルクスの『資本論』の影響を受けて無神論者となり、マルクス主義者になっていく。その後、ロシア社会民主労働党に加わり、レーニンとときには衝突しながらも片腕として活躍する。レーニンの死後、共産党内の権力闘争に勝利して、1922年ソビエト連邦共産党書記長となり、独裁的立場を築く。計画経済を導入して、工業化や農業集団化を進めた。計画経済は一定の成果を生んだが、反対するものを強制収容所へ送ったり、農業政策の失敗によって1930年代の大飢饉を引き起こして餓死者を多く出したりと、影の部分も多い。1939年に第二次世界大戦がはじまると、ポーランドやフィンランドに侵攻。1941年に独ソ戦争がはじまると、大きな被害を出しながらも1945年にソビエトが勝利を収めて、ドイツ降伏に追い込む。ソ連側の死者数は民間人含めると3000万人ともいわれ、人類史上最大規模の死者数ともされている。第二次大戦後は、アメリカと冷戦状態となり、中国共産党や朝鮮労働党との結びつきを強めた。


#10
冷戦の時代①(1945〜1989年)
ニキータ・フルシチョフ(1894-1971)
20220303_10-min.jpg スターリンの死後、党内の争いに勝って最高指導者の地位を固め、1953年に共産党第一書記となる。その後、1956年に開催された共産党大会で、絶対的な存在だったスターリンの恐怖政治や戦争指導の誤りを批判(スターリン批判)、平和共存への転換を表明した。農場開発や有人宇宙飛行計画など新たな政策を積極的に行う。第二次世界大戦から10年以上の時が経ち、アメリカとの平和共存を図る外交政策がとられる。1959年にはソ連首脳としてはじめてフルシチョフがアメリカを訪問。冷戦緩和が進むように思われたが、1960年にU2型機事件、1961年にベルリンの壁の構築、1962年のキューバ危機などをへて、再び緊張状態に入る。1964年、農業政策の失敗やキューバ危機の弱腰な対応などを理由に、突如、ソ連首相の座を解任される。


#11
冷戦の時代②(1945〜1989年)
レオニード・ブレジネフ(1907-1982)
20220303_11-min.jpg 1964〜82年までの18年間、ソ連共産党第一書記(66年〜は書記長)を務める。フルシチョフの改革への揺り戻しから、実利を重視する現実的な政策を実行。ただ、安定志向の政策は政治の停滞を招き、経済は落ち込んだ。国民は1日8時間は以上働かず、夏休みも2カ月間謳歌した。国に従ってさえいれば安全と生活が保障された。対外的には、緊張緩和(デタント)を推し進め、1973年には米国ニクソン大統領と核戦争防止協定を結ぶ。一方で、1968年にはチェコスロヴァキア社会主義共和国が自由化・民主化することを恐れて、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍が軍事介入して改革派のドプチェク第一書記、チェルニーク首相らを逮捕したり、1969年には中ソ国境紛争が起きたり、1979年にアフガニスタンに侵攻したりと、新冷戦とも呼ばれる東西緊張状態を生んだ。


#12
ソヴィエト連邦崩壊(1991年)
ミハイル・ゴルバチョフ(1931-)

20220303_12-min.jpg 長期にわたるブレジネフ政権下で矛盾を抱えていたソ連社会の停滞を改めようと、「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」を掲げて、政治の民主化や経済の自由化を進めた。1990年には共産党一党支配を廃して、複数政党制に。外交面では、東欧諸国の民主化を認め、1989年には米国ジョージ・H・W・ブッシュ大統領とマルタ会談を行い、44年間つづいた冷戦を終結させた。1990〜91年にかけてバルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアが独立宣言をしたことをきっかけに、連邦制の維持に危機感が募り、1991年に共産党保守派がクーデターを起こす。騒乱は鎮圧されたものの、ゴルバチョフは混乱を収めるために責任をとって辞任。ロシア、ウクライナ、ベラルーシが独立国家共同体(CIS)を結成することとなり、ソビエト連邦が解体した。ソビエト連邦成立から69年の歴史を終えることとなった。


#13
ロシア連邦設立(1991年〜)
ボリス・エリツィン(1931-2007)

20220303_13-min.jpg ソ連崩壊後、ロシア連邦の初代大統領となったのがエリツィン。反対派を退け、大統領権限を強化。民主主義と市場経済への移行を進め、外交では新欧米路線へ舵を切った。ショック療法と呼ばれた急激な経済政策では、産業の補助金や福祉などの支出を大きく削減。価格自由化などによって、1992年には前年比2500%超ものハイパーインフレを招き、失業者が劇増し、市民生活は困窮した。1999年に健康上の理由で引退する際に、後継の指導者として連邦保安局長官だったプーチンを指名した。


#14
ロシア連邦の現在(1999年〜)
ウラジーミル・プーチン(1952-)

20220303_14-min.jpg 2000〜2008年、2012〜2022年現在、ロシア連邦の大統領を務め、1999〜2000年、2008〜2012年は首相を務めていた。レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれ。レニングラード大学法学部を卒業して、KGB(国家保安委員会)に入り、冷戦期の5年間を旧東ドイツで諜報活動を行う。その後、レニングラード大学学長補佐官、ロシア連邦大統領府での勤務、連邦保安庁長官などをへて、2000年にエリツィンを継いで第2代大統領となる。国内では、資源高による経済を追い風に中央集権化を図り、新興財閥の影響力を排除。外交面では、1999年、2000年とチェチェン共和国へ武力攻撃を行い、テロ撲滅を掲げた政治姿勢で支持を得る。2014年にはクリミア半島のロシア系住民がロシア編入を望んでいることを受けて、ロシア軍を侵攻してクリミア併合を行い、国際的な批判を浴びた。2022年2月には、NATOの東方拡大に対抗するなどの理由でウクライナに軍事侵攻を開始した。


©︎Kremlin.ru.jpg
©︎Kremlin.ru
ソ連崩壊〜現代まで。混乱の時代はこれからどうなる?

ソ連崩壊後のロシアを大統領として引っ張ってきたのが、エリツィンとプーチンである。また、ペレストロイカでそれを支えたゴルバチョフも、現代ロシアの成立において避けては通れない存在だ。

もう一人の大統領としてメドベージェフがいるが、彼の政権は首相に就いたプーチンの影が大きく、さらにプーチンは再び大統領となった。その点では、2000年以降のロシアは一貫してプーチンの影響下にあったといっていい。

このロシアの大統領たちに共通するのは、強力なリーダーシップ。混乱の収束と再出発が課題だった国には、それがなによりも指導者に求められる要素だったのだろう。

2000年代、ロシアはエネルギー輸出を背景に成長の時代を過ごした。だが、2014年のクリミア半島への軍事侵攻、そして2022年2月24日にはじまったウクライナ侵攻など、外交面ではたびたび強硬な姿勢をとりつづけている。

今回の軍事侵攻の背景の一つには、NATOの東方拡大があるとされている。1949年、東西冷戦の危機感が強まったタイミングで西側諸国によって結ばれたNATO(North Atlantic Treaty Organizationの略。加盟国の領土及び国民を防衛するための軍事条約)は、当時はアイスランド・アメリカ・イギリス・イタリア・オランダ・カナダ・デンマーク・ノルウェー・フランス・ベルギー・ポルトガル・ルクセンブルクの12カ国が加盟していたが、現在は30カ国まで拡大して、チェコ、ハンガリー、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアといった旧東側諸国も加盟していて、2008年にはウクライナやジョージアの将来的な加盟が認められた。冷戦後、ソ連崩壊後も、見えない東西の線引きがつづいているのだ。

ゴルバチョフもエリツィンも、最後は息も絶え絶えのような状態で政権のバトンを渡した。プーチンはどのようなかたちでロシアの時代を築こうとしているのだろうか。

1991年にソビエト連邦が解体した今も、世界一の国土面積を誇る巨大なロシア。キエフからはじまったロシアの指導者たちの変遷は、ユーラシア大陸の広大な大地を束ね、機会があれば拡大を図ってきたツァーリたちの挑戦のようにもみえる。

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