photo by TOMOKO SASAKI/TRANSIT50号より
19世紀後半、「ジャパン・ブルー」という色名ができた。
外国人が美しいと称賛した「日本の青」は、一体どこからやってきて、どのように確立されたのか。
歴史を遡りながら、日本人にとっての青を探っていく。
外国人が感嘆した日本の青。
「青い屋根をのせた小さな家並、青いのれんを下げた小さな店屋、青い着物を着て、しじゅうにこにこしている小さな人たち」「ほとんど、どこの家の前にも、小さな筵の上に藍をひろげて、日にさぼしてあるのが見える」(『日本瞥見記』より)
ギリシア生まれのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年に来日したときに目にした光景についてこう書き残している。また、別のイギリスからやってきた化学者も「日本では至るところで藍色の衣装を見た」と記録していて、1892年には英語の色名に「ジャパン・ブルー」という色名が登場した。
日本瞥見記〈上〉(恒文社)
現在の日本ではさまざまな色が生活のなかにあふれているが、前述のようにとりわけ「青」が日本で愛されていたのはなぜだろうか。「日本の青」が構築されるまでを遡ってみよう。
「アオ」という色名は、日本で使われている色名のなかでもっとも古いもののひとつだ。古代に使用されていたのは、「アオ」「アカ」「シロ」「クロ」の4つのみという説もある。これらが日本の色の原点ではあるが、当時は直接的に色を表す名詞ではなく、ものや状況を説明するための形容詞として使われていたといわれている。
つまり、表1のように「青い」は「淡い(ぼんやりしている)」という意味を表していて、それが転じたものであるということだ。古代の生活では色を細かく表現すること自体、必要がなかったのだ。
TRANSIT50号「日本の『青』ができるまで」より
そののち、中国から漢字が伝わり、日本語に割り当てられた。当時の日本ではさまざまな中国の文献が読まれていて、日本語と漢字を統合するときに中国語の意味も一緒に吸収されていったようだ。
「青」という漢字は、「生」と「丹(井戸の水が溜まっている様子)」の組み合わせで、水の上で草木が成長する様子から成り立っている。日本でも草木の緑を「青」というのは、中国語に影響を受けた表現だろう。表2にもあるように五行思想と色は密接に関係している。これまでの色彩意識が共通言語として形成されていった飛鳥・ 奈良時代は、日本の色彩文化の基層のひとつを築いた重要な時代だった。
TRANSIT50号「日本の『青』ができるまで」より
同じ頃、藍染めの技術が中国からもたらされ、主に蓼藍を使った藍染めの方法が確立。中国を手本に、聖徳太子が朝廷に仕える臣下の身分を着物の色によって分ける「冠位十二階」を制定した。この制度ができたことにより、生活における色そのものの重要性が高まり、色がさらに意味をもつようになった。色の名前は自然や動物、そして染料の原料などからつけられるようになり、繊細に異なる色のバリエーションが少しずつ増えていった。
藍染め着物が一世を風靡。
江戸時代になると庶民文化が花開き、産業が活発化して綿の織物が一般に普及。綿は、赤や 紫系の植物染料では綺麗に染めるのが難しい生地だったが、藍はどんな繊維でもよく染める"優等生"として重宝された。使えば使うほどに味わいが生まれるという特性や、虫よけや汗疹防止の効果があるという使い勝手のよさも、人びとに愛された理由だ。また、贅沢を禁止する法律「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」が定められていたため、一般人は華美な色を身につけられなかったというのも、藍染め流行の後押しとなった。
©︎Bong Grit
染料のほか顔料も発達。歌川広重や葛飾北斎などのスター浮世絵師が鮮やかな青を好んで用いたことから、民衆の間でも青の存在感は増幅。作家たちも文学作品のなかで言葉巧みにさまざまな色を表現したことは、青系はもちろん、たくさんの色の認知を一般に広げるきっかけとなった。こうして、江戸〜明治時代にかけてとくに流行し、 生活やファッション、デザイン、芸術などと結びつき、藍から広がりカルチャーを彩った青が「ジャパン・ブルー」となった。
では、これまでにいくつの「青」系の色名が生まれたのか。色のグラデーションのなかで、どこからどこまでが青なのか......。 実は、それに厳密な定義はない。同じ色味なのに京と江戸で呼び方が違っていることもあるし、時とともに変化してきた色もあるようだ。人びとの生活に密接に結びついた、もはや無限にある色ともいえる、さまざまな「伝統の青」。一つひとつのルーツを読み取っていくと、祖先たちが暮らしていた日本の風景が鮮やかに目に浮かんでくる。
小林昭世=監修
こばやし・あきよ●武蔵野美術大学基礎デザイン学科教授。デザイン理論やデザイン方法論、歴史などの専門で、国内外の色やデザインに精通している。