いまこそ、日本の世界自然遺産へ

Travel Story No.3

小笠原

Ogasawara Islands

絶海の島で
生きるものたち

東京都心部から太平洋を1000㎞船で南下して、ようやく辿り着くことのできる小笠原諸島。
本州から一番遠いその島々には、絶海の孤島だからこそ、育まれ守られてきた固有の生態系がある。
ここでしか出会えない生きものたちを探しに出かけた。

photo: Yusuke Abe  text: Nobuko Sugawara (TRANSIT)

ABOUT 小笠原諸島

東京都心部から約1000㎞離れ、大小30ほどの島々からなる小笠原諸島。4800万年前頃の海底火山の噴火によって、海面に隆起してできた海洋島で、一度も大陸と陸続きになったことがない。それゆえ大海を越えて辿り着くことができたわずかな生物が、独自の進化をとげて唯一無二の生態系が形成された。そのことが認められ、2011年に世界自然遺産に登録された。一般人が住むのは父島と母島だけで、小笠原諸島の玄関口である父島には1週間に一度、東京の竹芝桟橋から片道24時間の船便でしかアクセスできないが、小笠原ならではの雄大な自然を楽しみに多くの人が訪れる。

長崎展望台
大神山公園
中央山
乳房山

海ではなく、陸を探検する。

24時間の船旅もゴール間近。聟島列島が見えてきたというアナウンスに誘われてデッキへ向かう。晴れていたらイルカやクジラが迎えてくれる日もあるようだがあいにくの雨。ぐずつく天気のなか、おがさわら丸に挨拶してくれたのはカツオドリだけだった。天気予報を何度見ても晴れマークにならず、父島初日は海でサンゴを見る予定だったが、透き通るボニンブルーは期待できなさそうだ。

刺し網漁を行う漁師たち

おがさわら丸の進行方向とともに飛ぶカツオドリ。

小笠原といえば、シュノーケリングなど海のアクティビティの印象が強い。ガイドブックには楽園のようなビーチがいくつも紹介され、イルカと泳ぐアクティビティも神秘的で憧れる。

しかしそれに劣らない魅力がこの島にはある。小笠原諸島はガラパゴス諸島のように、大陸とつながったことのない、深海から突き出て現れた「海洋島」。鳥や、波や風に運ばれて辿り着き、そこで環境に適応しながら成長した島固有の動植物が、細分化しながら進化している。その生態系が認められて小笠原諸島は2011年に世界自然遺産に登録された。そしてその希少な生態系は、海よりも陸のほうが多いのだという。

孤島に辿り着くことのできた少数の生き物たちだけが、ひっそりと進化してきた。小笠原は、そんな生き物の宝庫なのだ。

メヘゴ
シマザクラ

父島の中央山で出会ったメヘゴ()とシマザクラ()。メヘゴは父島にのみ分布するシダの固有種。

アカガシラカラスバト

父島の大神山公園で見つけたアカガシラカラスバト。

父島の長崎展望台で出会ったテリハハマボウ。

テリハハマボウ

夜に会いたい生き物たち。

ナイトツアーに参加し、グリーンペペと呼ばれ親しまれるヤコウタケを探しに暗闇の小笠原亜熱帯農業センターを訪れた。雨上がりの夜に見られることが多いと聞き期待が高まる。いくつかのスポットを通り過ぎ、ようやく1円玉にも満たないほどの小さな蛍光緑を確認すると、参加者から歓声が上がった。「食べられますか」という問いには、毒はないがおいしくもない、との答え。グリーンペペはたった3日の寿命で、いつもその場所にあるとは限らないという。どこからともなく生えてくるキノコが、あかりのない森の一角をひっそりと照らしている。

次に探したのはオガサワラオオコウモリ。太古の昔、南洋諸島から飛んできたコウモリが、長い年月をかけて独自に変化し、小笠原の固有種となったという。スマホのライトもフラッシュも禁止で、ガイドは動物に影響の少ない専用の赤いライトで木々を照らしてくれた。いくつかの木を回った後、「あの木にいる!」と指されたビームの先の赤に目をやる。ぶらさがったコウモリが飛び立つ瞬間、森がかすかに揺れた。

ほかのナイトツアーのグループとすれちがうとき、ガイド同士で情報交換する姿に島の自然や生き物を大切に共有している空気を感じた。生態系を守るためのルールが小笠原には生きている。

ヤコウタケ(グリーンペペ)

大木の根のあたりにいたヤコウタケ(グリーンペペ)。菌糸が光るキノコは他の亜熱帯の島でも見られるようだが、暗闇にぼんやり光るそのグリーンは、小笠原の夜の楽しみだ。

飛び立つオガサワラオオコウモリ

飛び立つオガサワラオオコウモリ。絶滅危惧種に指定されている。

小さな島の多くの生き物。

小笠原の多様な生態系に触れるなら、父島だけでなくぜひ母島にも足を運んでください、というアドバイスをもらった。父島からさらに50㎞南、2時間の船旅を要する日本の端っこ、母島。人口は約450人で商店はたった3軒しかないが、寂れた雰囲気や、時間が止まっている感じはない。静かで、島民たちにも温かな穏やかさがあった。

向かったのは乳房山。登山口で足の泥を丁寧に落とし、お酢のスプレーとコロコロで服やリュックについた種子を除去する。「固有種」を守り山の生態系を崩さないように外来種の持ち込みを徹底的に防ぐ必要があるからだ。

登山口から、南国らしいガジュマルやテリハボク、モモタマナなどが生命力いっぱいに生えていて、固有種のオガサワラビロウやタコノキも迎えてくれる。まるでジャングルのようで楽しい。頂上を目指す登山であれば、通り過ぎていたかもしれないひとつひとつの景色も、注意深く足元や頭上を見ながら歩いていると、どれも違った表情であることに気づく。葉の上に動くマイマイや、鳴き声のするほうにハハジマメグロを見つけて、なかなか先へ進まない。

そんなとき、ここでしか出会えない生き物に満ちた島にいることに気づくのだった。このマイマイが固有のものか、外来種かは自分ではわからないし、それは小さな花や木々でもそうなのだけれど、宝島のようなこの山で、特別な生き物を見つけたいと思った。

乳房山の景色

乳房山の中腹から。深い森が広がる。

タコノキ
オガサワラビロウ

自生するタコノキ、オガサワラビロウに圧倒される。

マイマイ
ハハジマメグロ

乳房山で見つけたマイマイ(上)と、母島にしかいないハハジマメグロ(下)。

戦争の爪痕。

小笠原の歴史を語るとき、戦争のことは避けて通れない。小笠原諸島は太平洋戦争の戦場となった場所で、父島には濱江丸という戦争時の輸送船が座礁したままの姿で海にあるし、乳房山にも生々しい戦跡がある。塹壕や機関砲の残骸、そして米軍機が本土爆撃の帰途に不要爆弾を落とした大きな跡。

登山口にはうち捨てられた食器の欠片が散乱していた。新しいものに見えて不思議だったが、これらは1944年、絶え間ない空爆によって島民が本土へ強制疎開しなければならなかったとき、食器を米軍に使われたくないという島民が、割って乳房山に捨てたものなのだという。そして敗戦後は米国の直接統治下となり、一般の島民が1973年に帰還するまで母島はほとんど無人島だった。

1830年に人間が定住しはじめ、固有種の楽園だった島の生態系に変化が起きるようになる。外来種が侵入し、固有種を脅かすようになり、淘汰されてしまったものもある。そのため小笠原の人たちは、ルールブックをつくったりエコツーリズムをすすめたり、自主的に自然を大切にする仕組みづくりに取り組んでいる。いまだ手付かずの自然が多くあり、ガイドと一緒でないと入れない場所があるのもそのためだろう。

打ち捨てられた器

打ち捨てられた器が所々に落ちている。

米軍機が本土爆撃の帰途に不要爆弾を落とした大きな跡。直径19m、深さ4.5mの穴を、マルハチやシダの大木が埋めるように繁殖していた。

不要爆弾を落とした大きな跡

最終日の快晴、盛大な送別。

曇天に泣かされた島の旅も、最終日にようやく晴れ間を見せてくれた。小さな島の環境に適応して進化をつづける生き物の姿を間近で見られたことが嬉しかった。

晴れの父島

小剣先山からみた母島の集落。

父島の二見港は送別の人たちであふれんばかりだった。後ろ髪をひかれながら、おがさわら丸に乗り込む。

お世話になった宿の方やガイドさんたちもいる。和太鼓が叩かれ、花飾りのレイが投げられ、子どもたちが垂れ幕を準備し、「またきてね」と叫んでくれる。父島、母島に滞在した3泊4日をとおして、このおがさわら丸が旅人だけでなく島民にとっての足であり、週に一度物資を運ぶ運送便であり、ライフラインであることを知った。

おがさわら丸が出帆すると、小型船もしばらく並走し、最後には船のクルーたちが皆海に飛び込み、泳ぎながら姿が見えなくなるまで手を振ってくれるのだ。

小笠原の自然がいつまでも守られますように、小笠原を愛する人たちが永遠に穏やかでいられますように。こちらも力の限り手を振り返す。

にぎやかな二見港

横断幕や太鼓などでにぎやかな二見港。

二見湾を出る頃、地元の人たちが、船で途中まで並走し、最後にはダイブして見送ってくれた。

船からダイブして見送る人たち
山のなかにも明るい光が届く

母島の小剣先山をハイキング。鬱蒼とした山のなかにも明るい光が届く。

Information


Photographer


阿部裕介 Yusuke Abe

1989年生まれ、東京都出身。青山学院大学卒業。在学中よりヨーロッパ・アフリカ・欧米・アジア諸国を回り、写真をはじめる。2014年よりフリーランスとして活動。YARD所属。