旅と本と映画
チベットを知る5作
星 泉選

本や映画で世界を旅をしよう。
そのエリアに造詣の深い方々を案内人とし、作品を教えていただく連載の第9回。

00 .png チベットと聞いてイメージするのは何だろう。仏教や僧侶、秘境?
チベット語翻訳家、星泉さんが案内する、もっとチベットの「今」を知る旅へ。



チベットを知る本と映画

text=IZUMI HOSHI




『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』

ツェワン・イシェ・ペンバ著、星泉訳 (書肆侃侃房)

220520_01.jpg せっかく読書で旅をするなら、チベットの奥まで分け入って、酸いも甘いも体験してみたいという方にぜひともおすすめしたいのが、20世紀前半から半ばにかけての東チベットを舞台とするこの長編小説です。

前半の語り手は結婚したばかりの若いアメリカ人宣教師夫妻。物語は2人が船に乗り込み、カリフォルニアを出港して、中国大陸に向かうというところから始まるので、旅の始まるどきどき感まで彼らと一緒に味わうことができます。

2人は幾多の困難を乗り越えてチベットの地に入るのですが、布教は一向にうまくいきません。むしろ仏教者との哲学的な対話を通じて、チベット文化の奥深さや人びとの寛容さに心打たれてしまいます。やがて生まれた宣教師の息子ポールと、領主の息子テンガは大人たちの愛憎劇に巻き込まれながら、深い友情で結ばれます。そして長じた2人は1950年代の共産党軍の侵攻に抵抗し、人間の尊厳を賭けた厳しい戦いに身を投じていく......。

500ページを超えるのに長さをまったく感じさせない著者の巧みな語りは素晴らしく、手に汗握る冒険活劇のような物語に身を任せているうちに、目の前にチベットの現代史が立体的に立ち上がってきます。


『夜明けの言葉』

ダライ・ラマ14世著、三浦順子訳、松尾純写真 (大和書房)

220520_02.jpg チベットについて知ろうとすれば必ず仏教がついてまわります。『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』では、仏教者が宣教師や共産党員と哲学対話を交わすシーンに大変読みごたえがあるのですが、仏教の考え方を少し知っておくとより深く理解できるでしょう。

その素晴らしいガイド役となってくれるのがダライ・ラマ14世が一般の人向けに語ったアドバイスをまとめたこの本です。思いやり、忍耐、怒り、幸福、責任感、平和、死という章ごとに、珠玉の言葉が並んでいます。たとえば幸福の章から引用してみます。

「他者の幸せを大切にすればするほど、私たち自身への幸せへの意識が深まってゆきます。他者へのあたたかい親近感が深まれば、自然に自分の心も安らいでくるものです。そうなれば、いかなる恐れや不安も取り除かれ、直面する障害に打ち勝つ力が生み出されるでしょう。これが人生における究極的な成功の源となるのです」

社会的な動物であるわれわれにとって、利他の心をもつことがいかに重要なのか、そうした根本的な話を、とてもわかりやすい言葉で説いてくれます。チベット各地で撮影されたチベットの人びとの写真が随所にちりばめられており、旅心をくすぐられること請け合いです。


『チベット幻想奇譚』

星 泉・三浦順子・海老原志穂編訳 (春陽堂書店)

220520_03.jpg チベットの人びととわれわれの間でものの見方が少し違うところといえば、輪廻転生を信じているところと、魔物と隣り合わせで生きているところでしょう。生き物はみな何度も繰り返し生まれ変わるので、死んだらその肉体とおさらばするだけで、また別の肉体を得て生きていきます。ある意味、永遠に死ぬことがないのです。

敬虔な仏教徒であるチベットの人びとですが、実は神々や魔物といった民間信仰の世界にも生きています。土地神様には日々のお祈りが欠かせないし、目には見えないもののさまざまな魔物がまわりをうろうろしているので、よくよく注意を払わないと恐ろしいことになります。チベットの人びとにとって魔物の存在は身近でもあり、また差し迫った脅威でもあるのです。

こんなものの見方をする人びとが作家となったとき、彼らの紡ぎ出す物語は魔術的リアリズムの様相を帯びてきます。チベットの10人の現代作家たちによる幻想奇譚の饗宴は日本の読者のみなさんにもきっと楽しんでいただけるでしょう。


『羊飼いと風船』

ペマ・ツェテン監督

220520_04.jpg 220520_05.jpg もともと小説家として活躍していたペマ・ツェテンは、チベット人が自分たちの手で映画制作できる環境を作ろうと奮闘してきた人物です。その実力は国際的にも高く評価され、今やチベット映画界を牽引する存在です。

この作品は、伝統と近代の相剋をテーマとして取り上げるこの多い監督が、輪廻転生と女性の出産という二つの問題を取り上げ、変わりゆく牧畜民の生活を通して見える生と死を描いた映画です。

子どもたちがみな学校に行き、かつてのように一家総出で牧畜を営むことができなくなった牧畜民の一家。4人目を妊娠してしまった妻は生活が苦しくなるといって悩みます。夫は、お腹の子は先頃急逝した父の生まれ変わりに違いない、高僧の占いでも「家族に転生する」と出たといって、妻に生むよう強要します。中絶したい妻との間で大げんかになり......。

生むことを期待される性である女性が「生むのか生まないのか」という究極の選択を迫られ、追い詰められる。現実を生きることと伝統的な宗教観と家族観のどちらを優先させるべきかも含めて、考えさせられる作品です。

監督自身による原作小説『風船』(ペマ・ツェテン著、大川謙作訳、春陽堂書店)もよかったらぜひ。 220520_06.jpg


『巡礼の約束』

ソンタルジャ監督

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©GARUDA FILM

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©GARUDA FILM

ペマ・ツェテンに誘われて映画を学び始めたソンタルジャは、ペマ・ツェテンの初期の作品で撮影監督を務めていましたが、ほどなくして独立し、自ら監督として映画を撮るようになりました。もともと美術畑だったソンタルジャ監督の作る映像の、研ぎ澄まされたような美しさはこの監督の武器です。そんな映像に、人間の繊細な心の襞まで感じられるような巧みな物語運びが加わり、観るたびに感服させられてしまいます。

この作品は迫りくる死を覚悟しつつ過酷な巡礼にのぞむ女性、うろたえながら愛情深くそれを支える再婚の夫、女性の連れ子は親から見捨てられたという思いにさいなまれてふさぎ込む。この3人の繊細な思いを描いた作品です。とくに、巡礼途中で女性が亡くなってからが見どころです。再婚の夫と連れ子が、それぞれにわだかまりを抱えながらも巡礼の旅をつづけ、少しずつ心を通わせていきます。

観ているうちにじわじわと心が満たされてくるような感覚を覚える温かい作品です。

驚くなかれ、チベット本土での映画制作は始まってまだ10数年です。そんなに歴史が浅いとはにわかには信じられないほど優れた作品が続々と作られています。チベットの映画人たちの活躍には今後も目が離せません。

シアター ムヴィオラにて配信中


星泉(ほし・いずみ)●東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所でチベット語研究に従事するかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。本記事で取り上げた以外の訳書にラシャムジャ『路上の陽光』(書肆侃侃房)、ラシャムジャ『雪を待つ』(勉誠出版)、共訳書にツェラン・トンドゥプ『黒狐の谷』(勉誠出版)、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』(東京外国語大学出版会)など。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』 編集長。 
Twitter:@chimey

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