日本や世界で活躍している人のなかには、かつてイタリアで修業をしていた、なんて人が多かったりする。遠い異国の地で、壁にぶつかりながらも技やセンスを学び今や新しい道を切り拓いた、スタイリストであり『Numéro TOKYO』編集長の田中杏子さんのイタリア時代の奮闘物語。
illustration=YU YOKOYAMA
text=TRANSIT
イタリア修業物語!
PROFILE
田中杏子(たなか・あこ)●大阪府出身。高校卒業後単身で渡伊。帰国後はフリーのスタイリストとして活動。ファッション・エディターとして『VOGUE NIPPON(現『VOGUEJAPAN』の創刊号に携わり、2005年『Numéro TOKYO』編集長に就任。
海外に行きたくて、高校卒業後はアメリカに語学留学しようと考えていました。でも親に「語学は現地で学べるから、勉強したいことで留学したほうがいい」と言われ、ファッションを選んだんです。父が服飾関係の仕事をしていたので、ファッションならヨーロッパだと。父の縁もあってイタリアになりましたが、もしフランスを薦められたらフランスに行っただろうと思います。
ミラノにあるデザイナーの学校〈Istituto Marangoni Design School〉に通いましたが、3日で100体のデザイン画を描くという課題や、才能豊かな同級生を見て、自分はデザイナーにはなれないと痛感しました。その後は短期集中でパタンナーの養成学校に。平日毎日8時間みっちり授業があり、1日でも休めば卒業できない。どんなに夜通し遊んでも、絶対に休みませんでした。
でもパタンナーにも興味がなく、もともとファッション誌が好きでスタイリストという職業に憧れがあったので、そちらを目指すようになるんですね。知り合いのフォトグラファーやモデルたちとブックを作って、売り込みに回りました。
〈Istituto Secoli Pattern School〉でパタンナーの修業時代。裁縫の宿題中。 ©︎田中杏子
一流のスタイリストが集まる事務所に、はじめは無給でいいから働かせてほしいと頼み採用されました。無事、正式にアシスタントとして働くうちに「杏子のいる現場はものがなくならない」と指名で仕事がくるように。当時、撮影現場で商品が紛失することがよくあったんですが、私はどこに何があるのか全部把握して、ジュエリーはカメラバッグみたいなものに入れて肌身離さず持ち歩き、絶対にものをなくさなかったんです。徹底して管理する、真面目な仕事ぶりが武器になったんですね。
ドルチェ&ガッバーナやロメオ・ジリといったブランドが登場したり、プラダが服を作り始めたり、イタリアのハイブランドが勢いをもったおもしろい時代でした。多くのことを学びましたが、イタリア人のビジュアルセンスや色彩感覚は抜群で、目に焼き付けましたね。そして、現地で読んでいた『VOGUE ITALIA』が、あるとき編集長の交代で誌面がガラリと変わったときの衝撃は忘れられません。新鮮で、すごくかっこよくなった。編集長で雑誌はこんなに変わるんだと知ったことが、今の自分の仕事の礎になっていると思います。
TRANSIT本誌では、ここで紹介したイタリア修行物語以外にもロマンあふれるイタリアの風景や歴史をお届けしています。イタリアが大好きな人はもちろん、そうでない人もイタリアに行きたくなること間違いなし!な一冊です。ぜひ読んでみてください。