いまこそ、日本の世界自然遺産へ

Travel Story No.2

白神山地

Shirakami-Sanchi

ブナの森で育まれる、
いのちの原点

深い谷に急峻な山岳、パワフルな滝や川。厳しくも美しき白神の地に根を張った原生的なブナ林は、
動植物の暮らしを支え、人びとの生活に恵みを与えてきた。
生きとし生けるものを潤しつづける白神の地へ、森を歩き、水に触れる冒険に出かけた。

photo: Eriko Nemoto  text: Yue Morozumi (TRANSIT)

ABOUT 白神山地

青森県と秋田県にまたがる白神山地。世界最大級の原生的なブナ林が分布しており、1993年に日本で初めて屋久島とともに世界自然遺産に登録された。白神山地にブナは8000年前から存在しているといわれており、人為的な影響をほとんど受けていない、貴重な森の姿が観察できる。そんな森の中には、ブナのみならず、ミズナラやクマゲラなど多種多様な動植物が暮らし、豊かな生態系が育まれているのも特徴だ。また、周辺地域は現在も土地の隆起がつづいており、渓谷や滝、急流など、迫力ある自然景観が多い。

青池
白神山地ビジターセンター
暗門の滝
岳岱自然観察教育林
白神山地世界遺産センター藤里館
青森市
秋田市

雨の降る、白神の滝へ。

晴れ女、雨男、みたいな話はあまり信じていないが、いざ車を降りて暗門の滝へ出発しようしたその瞬間にざーっと雨が降り出したときは、さすがに自分は雨女なのかもしれないと思った。「このまま雨が強くなったら滝への道は通行止めになるよ。危なそうだったら早めに切り上げてね」。入口付近にいた受付のおじさんもそう言って、心配そうに見送ってくれる。


この暗門の滝は第一から第三まで3つの滝が存在し、ごつごつとした岩場や急峻な渓流を越えて辿り着く。道中は原生状態のブナのほか、ミズナラやサワグルミなどの木々、エゾアジサイやシダ植物、野鳥など、さまざまな動植物が観察できる場所だ。最奥の第一の滝まで行くと往復2時間半ちょっと、第二の滝までなら往復2時間ほどのトレッキング。やや不安な面持ちで雨空を見上げると、ガイドの渡邊禎仁さんはにっこりと笑顔を見せる。「このくらいの天気なら、多分大丈夫。雨の白神も、また幻想的だから」と迷いなく歩みをすすめた。

霞がかった白神山地

霞がかった白神山地。暗門の滝への道は山深い場所にあるため、天気が変わりやすい。

雨の通り道「樹幹流」
ブナ林
恵の雨と植物

上/ブナを通って土まで染み込むまでの雨の通り道「樹幹流」。雨の日にしか見られない光景。 中/川沿いの道のすぐ脇にはブナ林が。 下/恵みの雨をうけて、植物たちはどこかうれしそうな気もする。

ブナがもたらす、やわらかな湧水。

ごろごろとした石が転がる山道は、雨に濡れてやや滑りやすいが、その一方で雨粒でしっとりと濡れた木々は、生き生きとしていてどこか艶っぽい。時期は7月。初夏とはいえ、部分的に雪が残っていたり、フキノトウやミズなどの山菜が生えていたり、まだかすかに春のにおいが残っている。

歩いていると、遊歩道の道すがら、湧水が流れている場所があった。「飲むのは自己責任で」とのことだったが、手を丸くして水をすくいあげると、ひんやり冷たいのに、感触はやわらかい。少しだけ口に含んでみると、まろみがある軟水が、喉を潤してくれた。
「この水は、100年前の雨が濾過されて、やっと地表に出てきたもの。ブナの木は一本あたり最大8tもの水を溜め込むと言われている。じっくりと長い時間をかけて、澄んだ水へと変化していくんです」。
いまこの瞬間に降っている雨は、100年後にここを通った人びとが飲むのかもしれない。白神の水の長い長い旅に、思いを馳せる。

キンキンに冷えた湧水
岩山に挟まれた川

/キンキンに冷えた湧水。青森や秋田では、冷たいことを「しゃっこい」というらしい。 /岩を飛び越え、川のすぐそばを歩くたび、自然と一体になっていく気がする。

スリル満点な滝への道。

滝までの道は、ビビりな私にとっては想像以上にスリリングなアドベンチャーだった。途中途中に階段や歩道は整備されているものの、地滑りが多い土地柄、土砂が流され大木が根こそぎ倒れている箇所もそこそこ見かける。川の上に架けられた橋は、岩と岩の間に木の板を乗せた簡易的なもので、通ろうとするとしなって揺れる。実際はそんなことないだろうが、「自分の重みで崩落するのでは」と慎重な足さばきにならざるを得ない。幸い小雨ではあったが、雨も降っていたので川や湧水の水量も増しており、勢いがある。切り立った渓流の岩々も、雨を受けて黒く鈍く光っていた。
奥へ行くほどその地形は荒々しさを増し、まだ見ぬ滝の姿を想像してはもっと深く、もっと奥へと早く歩みを進めたい気持ちになる。初めて見る白神のパワフルな自然に、立ち止まっては足早に歩き、感動しては畏れ、を繰り返していた。

そうして1時間ほど歩くと、いままでにない轟音が聞こえてきた。滝だ。やっとのことで視界の中にとらえた滝は、たっぷりとした量の水がものすごい勢いで落下し、白い飛沫をあげていた。滝壺に近づくと、その水は透明に澄んでいて、手のひらですくうと、さっきまであんな勢いで滝壺に叩きつけられていた水も、道中の湧水と同じようにやさしい感触をしていた。

揺れる橋
白神山地ガイド会の渡邊さん
オレンジのオニユリ

/踏み締めるたびに揺れる橋は、恐怖と同時に童心に帰ったようなワクワク感もある。 中/白神山地ガイド会の渡邊さん。歩くたびにさまざまな動植物を見つけてはそのおもしろさを教えてくれる。 /鮮やかなオレンジのオニユリ。滝脇の岩場にて。

暗門の滝

ついに対面した暗門の滝。鳴り響く水音は、豪快ながらも涼しげだ。

十二湖のひとつ、青池は、もやがかかったり、光が翳って青が濃くなったり、見る時間や天気によってどんどんと表情が変わる。
movie=Shoichiro Kato, Maho Kurita

苔むした、朝のブナ林。

滝へのトレッキングを終えた翌日、「暗門の滝やその周辺のブナ林とは少し違った魅力があるから」と、渡邊さんは藤里町の山奥にある岳岱自然観察教育林へと連れていってくれた。時間は早朝。朝靄がかかり、うすぼんやりとしたブナ林は、たしかに昨日見た林より密度が濃く、厳かな雰囲気を醸している気がする。苔むした岩に絡みつくように伸びているブナたちは、太くしなやかで、さまざまな方向に自由に枝根を伸ばしていた。

「ブナは根っこを横に広げる植物。隣の木と絡み合って、大きなネットのようなものを作るんです。そのネットが、腐葉土の流出を防ぎ、天然のフィルターとなって雨を浄化し、わたしたちに飲み水をもたらしてくれるんですよ」。
たしかに足元を見ると、太い根が幾重にも重なり、絡み合って土の中に張り巡らされている。わたしたちの見えないところで、木はぐんぐんと成長し、巨大な地下構造をつくっているのだ。
「山林の中に道路をつくると、木が伐採され、地下の根のネットも切られてしまう。目に見える森林が減少しているのはもちろん、見えない地下の部分でも、森はどんどん収縮してしまっているんです」。靄に包まれた森を歩きながら、そう渡邊さんは話した。

エゾアジサイ
ブナなどの根っこ
薄暗い森の朝

上/エゾアジサイはまだ3分咲き。初夏の訪れを感じる。 中/足元を見ると、入り組んだブナなどの根っこが。 下/薄暗い森のなかを進んでいく。朝からこんな大自然のなかにいるのなんて、何年ぶりだろうか。

生命の源の行く末。

遊歩道を歩いていると、小さな湧水に出合った。ひんやりとしたその水をすくって沸かし、渡邊さんがコーヒーを淹れてくれた。ひとくち含むと、朝から散策してほどよく疲れた体に、あたたかく、やさしく染み渡る。
「こうやって湧水が飲めるなんて国、他にはほとんどないと思うんです。でも、日本に暮らしていると、それが当たり前だから、水のありがたさをわかっていない人も多い。でも、白神からこのブナ林がなくなったら?日本から山や森が消えたら?生命をつなぐ水が、なくなってしまうんです」

ブナは酸性雨さえも美しい水に変えるほど浄水作用が強く、その水はすべての生命を育む源となってきた。だが、ブナは漢字で書くと「橅」。成長が遅く、水分をたくさん含んで乾きづらいことから、人間にとって使いづらい木。価値のない木だから、木偏に無という字が当てられた、ともいわれている。偉い人に言って漢字を変えてやってくださいよ、と渡邊さんは冗談混じりで笑う。

8000年の歴史をもつともいわれているこの白神の森。枯れた大木のかたわらで、去年新芽が出たばかりだという赤ちゃんブナを見た。悠久の森が、健やかな水が、この先もずっとつづくように。そう願いながら、小さなブナの新芽を踏み潰さないように、慎重な足取りで帰路についた。

苔むした巨石
新芽のブナ
ブナ森で飲むコーヒー

上/苔むした巨石がごろごろ転がり、色合いも濃緑で落ち着いている。 中/ブナは成長が遅く、花が咲いて果実が付くまでに50年以上かかるともいわれる。 下/ブナ森カフェのオープン!なんて贅沢な朝。

根も、枝も、横に広がっていくというブナ

根も、枝も、横に広がっていくというブナ。わたしたちを包んで、見守ってくれているような気がする。

暗門の滝の途中で見えた、ブナ林

暗門の滝の途中で見えた、ブナ林。ふとしたところに、迫力のある木々があって楽しい。

※現在、第一の滝へ向かうルートは現在整備されておらずガイド同行以外は通行禁止。天候・土砂崩れなどの影響により通行止の可能性もあるため、随時確認を。(2023年9月時点)

Information


Photographer


根本絵梨子 Eriko Nemoto

1988年群馬県生まれ。富山県で建築を学び、在学中に渡豪。就職とともに上京し写真の道へ進む。スタジオ勤務、アシスタントを経て2016年よりフリーランスのフォトグラファーとして広告や雑誌などの分野で活動。ライフワークとして山を頻繁に歩き、自然の写真を撮り続けている。