本や映画で世界を旅しよう。
そのエリアに造詣の深い方々を案内人とし、作品を教えていただく連載の第8回目。
自然や動物、料理、戦争----。大国のすべてをわかることはできないからこそ、小さな一片を知ることでその複雑さに思いを馳せたい。それを助けてくれるのが物語である。今回は、ロシア語の翻訳家、奈倉有里さんに選んでいただきました。
ロシアを知る本と映画
text=YURI NAGURA
『復活』
レフ・トルストイ著、藤沼貴訳(岩波文庫・上下)
「人間がどんなに自然を傷つけても、春はやっぱり春だった。植物も、鳥も、子供たちも嬉しそうだった。けれども、人間たち──もう一人前の大人たちは、自分をあざむいたり、苦しめたり、またたがいにだましあったり、苦しめあったりすることをやめなかった。大人たちにとって神聖であり大切なのは、この春の朝──平和と調和と愛ではなく、たがいに他人を支配するために考え出したことなのだった」。
これは、『復活』の冒頭部分の抜粋。『復活』は、私がロシア語をやろうと思ったきっかけになった本のひとつで、毎年春になるとなんとなく物悲しいような気持ちになるのは、この冒頭を思い出すからかもしれない。若いころの過ちを償おうとする主人公ネフリュードフの葛藤は、個人的な問題から出発して、それまで知らなかった人びとを直に知ることで、次第に社会へと広がっていく。まだがんばろう、と思える大切な本だ。
『カラー版 シベリア動物誌』
福田俊司著(岩波新書)
ロシアに興味があるという人、行ってみたいという人のなかで「シベリア鉄道に乗りたい」という人は多い。どこまでも続く線路、果てしない草原(冬なら雪!)、いろんなものが壊れるお決まりのハプニングと、助け合う温かい人びと。言葉はそんなに伝わらなくてもなんとなく仲良くなってしまう乗客。あるいはレフ・トルストイの小説『クロイツェル・ソナタ』さながらに、同席した乗客が唐突に重たい話を始めるかもしれない、というちょっとした期待。
そんなシベリアへの夢をもつ人にも、まあさしあたってシベリアに行く予定のない人にもおすすめしたいのがこの本。鉄道からは見えないシベリアの奥深くの豊かな自然と動物たちに出会えます。新書なのにものすごい数のカラー写真で、しかも、添えられているコメントがまたいいんだ。え、いまはロシアに行けない? 私もそう。だからこそ、そんな状況のなかでこの動物たちを眺めていると、国境という概念を知らない野生の動物たちのしなやかな美しさが、言葉以外のなにかで、語りかけてくれる気がするのだ。
『亡命ロシア料理』
アレクサンドル・ゲニス&ピョートル・ワイリ著、沼野充義・北川和美・守屋愛訳(未知谷)
ロシア文学に興味をもったころ、本のなかに出てくる料理を自分でも作ってみたくて、図書館でロシア料理の本を探して、作れそうなものを次々に作ってみたことがあった。最初に借りた本は本格的な料理本で、「うーん、この材料なんだろう」とか、「えっ、こんなにたくさん作るのは無理だ、ぜんぶの材料を四分の一にしたらちょうどいいのかな?」とか、四苦八苦した覚えがある。
次に借りてきたのがこの本で、こんどは料理以外の部分がやたらと難しくて、「???」となった。「『亡命』+『ロシア』+『料理』とは、三つの単語の、なんと奇妙なロシア語だろう!」(沼野充義)とはまさに。それでもロシア語を本格的に始めてから、ゲニスの散文やワイリのロシア詩についての本に夢中になっていったのは、この本の存在がずっと気になっていたからかもしれない。
ゲニスとワイリについては沼野充義先生の「徹夜の塊」シリーズの『亡命文学論』(作品社)もどうぞ。自らもなかば「亡命ロシア人のような」気持ちでアメリカのロシア人と交流してきた沼野先生の軽やかな視点から、めくるめく亡命文学の世界に旅立てます。
『赤い十字』
サーシャ・フィリペンコ著、奈倉有里訳(集英社)
自分が訳した本のなかで一推しなのがこの本。2001年、ミンスクにとある青年が越してくると、となりには91歳のタチヤーナおばあさんが一人で暮らしていた。青年は強引なおばあさんを鬱陶しく思っていたが、次第におばあさんの話に引き込まれていく──
国民への粛清、弾圧が猛威を奮っていたソ連。迫りくる戦争よりも、自分たちの暮らす国の秘密警察のほうが怖いとタチヤーナは感じていた。外国語の知識を活かして外務省で翻訳の仕事をしていた彼女は、軍にとられた夫を案じながら、赤十字国際委員会からの捕虜の情報開示の要求文書を懸命に翻訳し続けるが、ソ連側はこれをことごとく無視。秘密警察に逮捕されるかもしれないという身の危険を常に感じながら、あくまでも誠実に生き抜こうとした彼女。
この歴史を、そこを生きた人びとを、現代の私たちはどう受け止めたらいいのか。決して軽い内容ではないのに主人公が魅力的で、翻訳しているあいだじゅうずっと心地いい緊張感に触れていた。深く考えさせられる内容でありながら、無駄がなく引き込まれて一息で読んでしまう。
『こねこ』
イワン・ポポフ監督
市場で買ってきた子猫にチグラーシャ(トラちゃん)という名前をつけて可愛がっていた姉弟。あるときチグラーシャは行方不明になり......。
迷子になった猫を探すというごく普通の話だけど、その背景には地上げ屋や路上でペットを売る人びとの姿など、1990年代ロシアの実情も見え隠れする。とはいえ、子どもも楽しめる優しく暖かな目線は最後まで変わらない......いや、最後まで観ると、むしろその優しさが改めて身に沁みるんだな。
猫にまみれているおじさんを演じるのは、猫サーカスの調教師で有名なアンドレイ・クズネツォフ。なにもしなくても猫がこの人の気持ちを汲みとってしまうように見えるほど猫との意思疎通に長けていて、監督もつくづく驚いたとか。まさに猫のプロ。自然な日常ロシア語会話もたくさん出てくるので、ロシア語学習者にもお薦め。ちなみに成長の早い子猫を撮影するのはたいへんなので、チグラーシャを演じた猫は5匹いたんだって。猫のプロは、この5匹の差もわかっていたんだろうな。
奈倉有里(なぐら・ゆり)●1982年生まれ。2002年からペテルブルクの語学学校でロシア語を学び、その後モスクワに移住。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)。訳書に『手紙』(ミハイル・シーシキン)、『陽気なお葬式』(リュドミラ・ウリツカヤ・ともに新潮クレストブックス)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(集英社)など。